〜Astral Projection〜
◆星幽体投射[Astral projection]
生きている人間の肉体から幽体を抜け出させる、魔術の修練法の一つ。
シャープペンを机に置く。
カタ、という硬質な音が、静まり返った会場に響く。
数人の少年少女が微かな反応を示した。それはそうだろう、時間はまだ半分以上残っているのだ。
ここにいるほとんどは、まだ全てを解き終わってすらいない。
もし、解き終わったとしても見直しや再計算、やるべきことはたくさんある。
――カツ、
――カツカツ、
――カツカツカツ、
――カツカツカツカツ、
会場に篭った空気が醸すのは、張り詰めた緊張に他ならない。
勿論、始めは彼――南夕樹とて緊張した。だが年間十回以上、それが三年目にもなれば誰だって場慣れする。
夕樹が特に何の意味も無く視線を下ろすと、一つだけ空欄が残っていた。
シャープペンを再び手に取り、自らの苗字の一画目を書いたところで手を止める。
視線を受験票へと向ける。そこに書かれているのは受験番号と、今の自身の名前だ。
「……ふぅ」
小さな溜息、この程度であれば誰に注意されることも無い。
大きく、深く、息を吸い込む。
すべきことはあと一つ。
――不自然な、コトなど、何も、ナイ
事前に掛けた後催眠を発動させる言葉を頭の中で反芻する。
これで、夕樹の仕事は終わりだ。瞳を閉じ、思考を集中する。
感じるべくは己の精神。
まずは一次元、それを点として捉え、
続いて二次元、面として捉え、
更に三次元、立体として捉え、
そして四次元、言葉では表すことの出来ない、しかし既知の感覚で捉える。
イメージは飛翔、逆バンジーや逆フリーフォールで感じる浮遊感を想起する。
意識が拡がる。人間の視線では考えることすら出来ない、鳥瞰図的な視点。
五感を感じ取る目も、耳も、鼻も、舌も、肌も無い今、だというのに、夕樹は言い知れない感覚を得ながら、そのアストラル体とイデオル体を遠くへと返していった。
*
「ゃー……」
二の腕が耳に当たるくらい高く手を上げ、夕樹は体を大きく伸ばす。
特徴的な漆黒の髪が寝癖のように跳ねている。
視覚も、聴覚も、嗅覚も、味覚も、触覚も、そのどれもが今は懐かしく感じられる。
クオリア、という言葉がある。日本語に訳せば感覚質だ。
簡潔に言えば、クオリアというのは『感じ』のことだ。例えば『血の赤い感じ』だとか『葉の青々とした感じ』だとか『ステーキから溢れる肉汁のあの感じ』だとか。
世界に対するあらゆる意識的な感覚そのもの、という言葉で纏められる。
要するに自分の見て、感じている赤と他人が見て、感じている赤が本当に同じなのか、というものだ。
眼球を移植したところで、視力そのものは変わってもクオリアに変化は無い。それは、クオリアを司っているのが脳だからだ。
かといって、脳を移植するのは不可能だろうし、そもそも脳を移植した人間が、以前と同じ人間と言えるのかどうかは微妙だろう。
では、脳もそのままに、精神だけを移せばどうなるか。
「痛ッ……」
頭痛。といっても肉体的なものではない。
他人の肉体から自分の肉体へと戻ってきたことによる『クオリア酔い』である。
夕樹の他にこんな経験をする人間なんていないのだから、当然これは水美の造語に過ぎない。
「ユウキ、
「あぁ、今回は一段とクオリア酔いが酷い」
溜息を吐きながら、夕樹は商売仲間に目を向ける。
結城水美。
人目を寄せる端整な風貌に、日本人としては薄すぎると思うほど白い肌。その特徴だけを聞けば、か弱い印象を受けるが、茶色のツインテールに結ばれた鈴は、常に忙しく鳴っている。
一時間、否、十分でも一緒にいれば、彼女が病弱の対極に位置しているということはわかるだろう。
「聞くまでも無いだろうけど、どうだった?」
「《引き出し》にもたくさん詰まっていたし、名前も間違えずに書いた。大丈夫だ」
夕樹と水美がこの仕事をはじめてから三年と少し。
同じ身体に長居することも少ないため、その時その時になんという名前の身体に入っているのかを忘れてしまうという事態が起こってしまう。
当然、自分の名前を忘れるわけではないが、逆に、自分の身体に入っているわけでもないのに自分の名前を記入してしまう、などという間違いも起こしてしまうわけだ。
「まぁ、ユウキが大丈夫っていうなら大丈夫なんだろうね」
夕樹の能力は《星幽体憑依》というものである。
無条件に使えるというものでもないが、
「まぁな」
人の脳や精神というものは忘れたいと思うこと以外、基本的には忘れにくく出来ている。
思い出せない、というのはほとんど、記憶を中に入れた箪笥の引き出しが重すぎて開けられなくなっているようなものだ。
そこで夕樹の能力が活きてくる。
夕樹は他者の身体に入り込んだ際、その引き出しをいくらでも開けることが出来る。
つまり、本人にとっては一瞬見えただけの映像であっても、彼はそれをじっくりと読み取れるということだ。
それを利用したのが今の商売。
《代行者》というのが彼らの職につけられた名前だ。
受験シーズン真っ最中、一番の稼ぎ時だが、その理由は『替え玉受験』ならぬ『替え
身体はその人間のものなんだから、非合法と言うわけではない。
そもそも学校側はそんな非科学的なルールを付け加えるような必要性なんて感じていないのだろう。
夕樹は引き出しから情報を取り出しさえすればいいのだから、点数が取れるのは必然ですらある。
「それでさ今日ね、依頼者が来るらしいんだけど、またコレが物凄ーく怪しそうな仕事なの」
「怪しそうな仕事? 元々この仕事は定義域マイナス無限大以上プラス無限大以下において値域イコールプラスマイナス怪しいで振動、だろ?」
今更なことを言い始める水美に、夕樹は軽口で返す。
幽体離脱とそこから派生する憑依を利用したこの仕事は怪しさだけでなく、胡散臭さと言う面でも相当なものだろう。
そもそも国に届を出して営業しているわけでもない。
十年以上前、探偵をやっていた夕樹の叔父が死んだ後、事務所だったここが夕樹の秘密基地的な遊び場になり、売りにも出されずにそのまま放置されていたので、現在は彼らが事務所として使ってる。
そのままであれば、法的には探偵事務所ということになっているのだろう。
金はとるとしても、詐欺ではない分、少なくとも新興宗教などよりは遥かにマシなものだろう。
「怪しいっていったらキリが無いんだけど、依頼者自身が怪しいんだよ」
「どういうことだ?」
今まで彼らが請け負った依頼は、簡単なところだと気弱な奴がいじめられない様にするための喧嘩の代行だとか、クラスメイトと仲良くなるきっかけ作り。
難しい、というよりも、仕事として最もそれらしいものが、この時期に最も多い、受験代行。
妙な依頼人としては「殺したいほど憎い奴がいるが殺す度胸がない」と言っていた中年男性などもいた。
彼については水美の勧誘ミスということで、全ての記憶を奪った上で、道端に放置されることとなった。
「えっとね、依頼者はどこで知ったのか、あっちからアクセスをかけてきたんだよ」
「な……」
確かにソレは妙だ。
彼らは別に荒稼ぎするためにこの仕事をやっているわけではない。
ただ金が欲しいだけならば、憑依した状態で金を銀行に振り込んだりすればいいわけで、こんな面倒な真似をする必要はない。
この能力を活用できる仕事というのも少ない。何となく面白そうだという理由で始めた、軽いアルバイト感覚の仕事だ。
だから、宣伝も何もしない。水美が勧誘を行って、それを通して夕樹が依頼を実行する。
ソレが終わり次第、夕樹は憑依した肉体に、水美に事前に掛けてもらった後催眠を起動させ、依頼したという記憶を消滅させる。依頼料については前もって支払われるが、不自然なことはない、と認識するように設定されているため、そこから問題が生じる可能性も考えにくい。
「もしかして、同業者かなぁ?」
「それは嫌だな」
「うん、色々駆け引きが必要になるし……相手が魔術に通じてたら不利だし」
つまり、彼らに分の悪い条件であっても、受ける必要が出てくる。
夕樹はアク抜きをしていない山菜を食べた時のように顔をしかめる。
魔術関連の仕事を請け負った結果、酷い目に遭ったというのはつい去年の六月頃のことである。
「それで、相手はいつ頃来るんだ?」
「えっとねー、一時ごろだって言ってた」
現在時刻は十一時半。
予定時刻の三十分前には早くてもここにいたいが、それでも一時間は暇になる。
かといって、ここは関東都市圏からは少し離れてしまった場所、ベッドタウンに娯楽施設はあまりにも少ない。
十数年前のシューティングゲームが未だに置かれている駅前のゲームセンターは最新のゲームも入っているが、一人で行ってもつまらないし、水美は破滅的にゲームのたぐいが下手だ。
手先は器用なのだが、器用ならばゲームが上手いというわけでもないらしい。
「あ、青髭危機一髪やろうよ。時間もあるし」
夕樹がどう時間を潰そうか思案していると、水美が思い出したように手を叩き、机の下から箱を取り出す。
「ジル・ド・レェ?」
「うん、刺すのがタルじゃなくて、壁に全裸の美少年が磔られてる壁に一人ずつ刺していくの。ハズレに当たると血糊と一緒に
まるでテレビショッピングの販促の言葉のように嬉しそうに話す水美だが、あまりの趣味の悪さに嘔吐感すら催す。
青髭、ジル・ド・レー男爵と言えば聖女ジャンヌダルクの副官で、彼女が魔女として処刑されてから男色に走ったり、美少年に性的拷問を行い、その血を身に浴びて歓喜に身悶えたとか、凄まじい逸話のある人間だ。
しかも、一本一本の剣が中世欧州風のエストックになっているところには芸の細かさを感じる。
こんな妙なものに凝るくらいならば、もう少しマトモなことに労力を費やすべきだろう。
「……いや、いい。血糊が出たら掃除も大変だろ」
「じゃあ血糊入れないでやってみようか」
「遠慮させてもらう」
夕樹は溜息を吐きながら、事務所を出ていった。
*
夕樹は近くのスーパーで菓子類を購入し、事務所に戻ってきた。
スナック、チョコレート、ガム、キャンディ、グミ、アイスクリーム。
事務所の主達は様々な菓子を口にしながら、他愛の無い会話を楽しむ。
その内容がどうにも一般常識からかけ離れているということにツッコミを入れる者は無い。
コンコン、とドアを叩く音。
「どうぞ」
呟く夕樹の瞳は茶。本来の肉体では特徴的な黒髪も、今は茶色のセミロングとなっている。
夕樹の言葉に従い、人影が事務所へと入ってくる。
中性的で整った顔立ちだが、服装からして変態か何らかの事情があるかでなければ女性だろう。
その、女性としては長身の体躯から流れ出る雰囲気は若々しい風貌とは裏腹に、長年を経て何らかの境地に至った仙人のようなものだった。
女性の長髪が流れる。
勧められるままに席につき、二人は女性と対面する。
「して、どのような代行を行えば?」
何の飾り気も無い、純粋な用件のみを問う夕樹の言葉。
「すみません。別に私は代行を頼みたくて来たわけではないんです」
夕樹は怪訝な表情を浮かべつつも言葉を発せず、ただ女の言葉の続きを促す。
「人探しをして頂きたいんです」
「そういった依頼は我々の対象外。探偵にでもして頂きたい」
即答し、夕樹は首を横に振る。
その言葉に含まれているのは冗談が半分。残りの半分は拒絶。
しかし、女性は引き下がらない。
「ただの探偵に頼むわけにもいきませんので」
その遠回しな言葉に、やはり術士か、と夕樹は舌打ちする。
製作する
肉体の一部が欠損した人間に通常の義体同様に取り付ける、というのが一般的な使用方法である。
しかし、星幽体投射能力保有者である夕樹は全身義体の肉体に憑依することが出来るのである。
「見つけて下されば金は言い値で構いません」
「……受けるかどうかは別として、話くらいは聞きましょう」
夕樹の言葉が真剣味を増す。
それを感じた女は微かに笑みを浮かべ、手荷物の中からファイルを取り出す。
「探して欲しいのは、私の弟子です」
「弟子……術式の弟子ですか?」
「えぇ、まぁ。最近失踪したということで……」
女は頷く。
不意に、隣の水美が何かに気付いたように小さな声をあげる。
「失礼ですが、お名前は?」
「清水です。清水
女性――清水天象の回答に夕樹と水美、二人は同時に驚きの声を上げる。
「清水……四大の清水家の御息女で?」
努めて冷静を装い、夕樹は問う。
天象は頷いた。
四大。かつて万象の源とされた火、風、水、土。
夕樹が指しているのはその精神形質や才能より、それぞれになぞらえた四つの名家のことだ。
火の浅緋家、風の風城家、土の陣原家、そして、水の清水家。
同時に清水、浅緋、陣原の三家は五行、即ち木火土金水にも重なってなぞらえられる。
ちなみに、五行では風城家の代わりに木行の榊家と金行の金城家が加わる。
更に五行に月極家と日下部家を加え、七曜ともされる。
兎角、清水家というのは四大、五行、七曜、雪月花、花鳥風月、東西南北などといった名家衆の内、三つに名を持つ強力な名家である。
「貴方ほどの術士が、何故わざわざ? 清水家の捜索能力を持ってすれば術士の一人や二人簡単に……」
夕樹は不思議に思った疑念を言葉にして天象へと向けた。
天象は恥ずかしそうに笑う。
「彼女はただでさえ術士不信のケがあります。不用意に術士が近づけば、彼女に不安を与えますし、そもそも術士相手に容赦ありませんから、彼女」
その言葉に夕樹は納得した。
術士ではいけない、しかし何の能力もなければ危険。
だからこそ、夕樹が選ばれたのだろう。
術士ではないながらも、異能の能力を持つ夕樹は、確かにその人捜しに適任だ。
しかし、それと受けるかどうかはまた別の話。
夕樹がそれについての話をしようとする前に天象は、それに、と前置きし、言葉を繋ぐ。
「私は彼女を清水家の術士として捜したくはないんです」
「へぇ……」
意外だった。
名家の術士というものは、全員がそうというわけではないにしろ、基本的には自らの家計、血脈に誇りを持ち、それを誇示せんとする。
だからというわけでもないが、夕樹は名家というものが嫌いだった。
しかし、天象から感じた印象は、夕樹の知る名家の術士のものとは全く異なるものだった。
「名家は嫌いですか?」
「……えぇ。あ、いや」
そこで夕樹は思い出す、別に名家であるからといってその全てが血脈を重視しているわけではないのだと。
名家に生まれた友人の顔数人が思い浮かぶ。
「そうでもありませんね。浅緋や月極とはそれなりに親交もありますし」
「そうですか。まぁ、血統云々は私は全く興味がないんですが」
天象の名家にあるまじき発言に、夕樹の顔に思わず笑みが浮かぶ。
迷いなど一切無く、夕樹は天象を見据え、言う。
「貴方の依頼、受けさせて頂きます」
「有難う御座います」
そう言って、天象は深々と頭を下げた。
そして気付く、天象はまだ、弟子を捜してほしいと言っただけでそれが誰なのか全く聞いていない。
別に誰を捜すにしても変わりはないが、それを聞かないわけには捜すことなどできるわけがない。
夕樹の内心に気付いたか、天象は手持ちのバックの中から一冊のファイルを取り出し、開く。
「昔の写真もありますが……」
そこには数枚の写真。
写っているのは天象と、三人の少女だ。
最も大きい写真に写っているのは茶色の短髪の少女、一人は銀色の長髪をなびかせた二人の少女が無邪気な笑みを浮かべ、その横にそれを微笑ましそうに見守る天象と、濃藍色の長髪の少女。
一人だけ大人びて見えるが、それでも三人の年齢はどれも同じようなものだろう。
そのうちの一人に、夕樹は見覚えがあった。
「……これは風城、風音?」
「風音を御存知ですか?」
「直接は知りませんが、彼女は友人の従妹でして、何度か写真を見たことがあります」
風城風音といえば、清水家同様、四大に含まれ、花鳥風月の一家ともされる名家、風城家の術士だ。
失踪はありえないし、居場所など風城の屋敷に決まっている。
わざわざ依頼してまで捜す必要など無い。
「風音の場所はわかっているんです。まぁ、彼女に大きく関連していますが……捜していただきたいのはあとの二人です」
夕樹の視線が写真に写った銀髪と濃藍、二色の長髪の少女へと注がれる。
見覚えは無い。
少なくとも、今まで夕樹が出会ったことのある術士ではないだろう。
「名前は?」
「銀髪の方がサカキ、藍髪の方がミフチです」
「ミフチ、だと?」
驚きのあまり、素の口調が出てしまう夕樹。
天象はそれを気にすることなく、それどころか、素の自分を見せた夕樹を歓迎するように笑みを浮かべ、頷く。
榊家は五行の木行の名家、基本的に互いに仲の悪い名家の術士同士が師弟というのは珍しい。
それを言ってしまえば風城家の風音もそうなのだが、それ以上に夕樹は、ミフチの姓に驚いていた。
「……お願い、できますか?」
それ以上を問わないでくれ、そう言わんばかりに天象が問う。
なるべく出さないようにしている好機の心が湧き上がる。
「勿論」
夕樹はただ一言、笑みを浮かべ頷いた。
*
「クソッ、しかし何だこの状況は……」
探偵の名目で行っている代行業だが、夕樹は人捜しをしたことなどなく、どうすれば良いのかはわからなかった。
とりあえず、術士の知り合いを伝ってメールで情報を募ったが、今のところ芳しい返信はきていない。
「確かに、素人というか一般人じゃ無理な依頼か……」
ふぅ、という小さな溜息。
それは、後悔先に立たずという言葉を理解した上で、しかし後悔の念など欠片すら含まれない吐息。
夕樹が手首を曲げると、前腕の中から金属音が響く。
「流石に、これには慣れないな」
誰に言うわけでもなく、夕樹は呟く。
放たれる燐光の弾丸を上半身の動きのみで避けつつ、反らした手首を射手に向ける。
前腕の筋肉に力を込め、久々の
この義体の左前腕には、アサルトライフルなどという物騒なものが仕込まれている。
光の射撃は続けられている。霊子弾丸と質量弾丸では明らかに質量弾丸の方が不利だ。特にこんな街中での銃撃戦においては相当なハンデを負うことになる。
しかし、それはあくまで銃撃戦を続けることを前提にした上の話。
ジリ貧になることがわかっていることを、そのまま続ける道理などない。
夕樹の身体が滑る。
否、実際に滑っているわけではない。霊子操作によって制御された重力や慣性を用い、地面スレスレを疾っているのだ。
その姿は霊長類の動きと呼ぶよりも、食肉目の疾駆に近い。
「!」
一瞬で十数メートルの距離を縮めた夕樹は、左手の自動小銃を乱射。
術式によって構成された霊子の防壁がじわりじわりと削られていく。
霊子の防壁が平面的な構造ではなく、物理的にも力を逃がすよう湾曲しているところから、相手も場慣れした術士であると夕樹は判断する。
「げ」
夕樹が筋肉の動きに異変を感じる。先程まで響いていた銃声は止んでいる。
ジャムった、と心の中で悪態を吐く。
ジャミング。空薬莢の排出に失敗した場合などに起こる動作不良である。
その瞬間を好機と言わんばかりに、術士は霊子防壁を閉じ、腰に備えたファルシオンで夕樹に斬りかかる。
カタン、という落下音はおおよそ有機物の落ちた音ではない。銃器を内蔵した義体だからこその重厚な音だ。
しかし、夕樹は落とされた左手を気にすることなく、右腕を術士の胸に突きつける。
「チェック……」
宣告し、突きつけたままの右腕で術士を突き飛ばす。
三度の炸裂音。
刹那、術士の背中が弾ける。
まるで種を飛ばす鳳仙花の果実の如く、背中から弾け出るのは鮮血と鉛の弾丸。
ソードオフ。
銃身を切り詰めることで取り回しを容易にしたショットガンである。
夕樹の右前腕に内蔵されているのは、まさにそれだった。
前腕という限られたスペースに内蔵するための措置だったが、弾の射出から拡散までの距離が短縮され、近距離での威力を増大させるという利点もある。
至近距離から放たれた鉛の悪魔達は術士の頭から下腹部にかけてを、原型しか残さないほどに蹂躙し尽くしていた。
「いや……」
瞳を閉じ、開く。
視覚が光学映像から赤外線へと変換される。
周囲には計八名の人影。その全てが術具を持っているため、術士であることは間違いない。
現状戦力での勝利は困難と判断。
「……チェックメイトではない、か」
呟き、斬りおとされた左腕の残った部分を
数度、手を開いては閉じを繰り返し、夕樹は頷く。
右手で左手、上腕二等筋に当たる部分を握り締め、夕樹はそれを思い切り引き千切る。
外皮が剥がれ、筋肉や血液、金属質のフレームが姿を表す。
続いてそれを投擲。
血塗れのスタングレネードを光源に、閃光が周囲を覆い尽くした。
*
走る。
逃げる、という単語ではない。
戦略的撤退という方が正しいだろう。
百メートルを十秒強で走りきるような尋常らしからぬ速さで疾走を続けつつ、夕樹は両腕を霊子分解。
霊子貯蔵から新たな義腕を確定、再構築。
腕を伸縮、手を開閉、義手の動作を確認する。
周囲を見渡し、その異常性に気付く。
体内時計――本当に内蔵している――を確かめると、時刻は丁度五時半。
夕飯の支度のために買い物に出ている主婦やら、遊びまわっている学生やらがいてもおかしくないのだが、夕樹はまだ、一人も見ていない。
理由は明白。他者の意識を反らす結界の術式。もしかすれば、その上に物理結界も張られているかもしれない。
「だとすれば厄介だな……」
再構築したばかりの右腕を再分解、更に再々構築。
右腕に現れるのは、今までの、人の手と見分けがつかないような義手とは全く違うモノ。
それは義手というよりも、兵器と呼んだ方が相応しいものだ。
長射程狙撃銃。
黒鋼に輝く砲身の長さは二メートルを超え、弾倉部分なども含めれば、その全長は三メートルほど。
数百キロにも及ぶ重火器を腕につけたまま、夕樹は減速すらしない。
両目を閉じ、センサーを起動。
水美が新たに開発したセンサー、常人には無い識覚という感覚を用いて情報を受容する擬似感覚器。
「アッチか」
擬似識覚によって結界の端部を確認、夕樹の足が円状に展開された結界の、最寄の端部へと向けられる。
酷使に耐え切れなくなった脚部の擬似筋肉が肉離れを起こす。
初使用で暖機運転しないままに使ってしまったことのツケ。
夕樹は動揺一つせず、左手を突いて腕の力だけで跳躍、その間に脚部を分解・構築。
流れるようなその動きは、最早芸術的ですらあった。
「水美、弾丸装填。結界・部分破壊型」
義体内蔵の通信機からの通信。
即座に反応。
霊子貯蔵に弾丸が補充され、夕樹の右腕に霊子転送・装填。
肘を完全に曲げた状態にし、右足を思い切り地面に叩き付ける。
アスファルトが砕け、踝までが地面にめり込む。
左膝を落とし、姿勢を低く。
数秒の沈黙の後、無音の射撃。
放たれたのは結界破壊用の霊子砲弾。
不安定すぎるために《
用の済んだ右腕・右足を分解し再構成。
再び生まれるのは、やはり先程同様の人のソレと見分けの付かない義手義足。
「水美、距離は?」
通信の応答に夕樹は頷き、呟く。
「直線距離にして約三キロ……奴らも人前で襲撃するつもりもないだろう」
二分、捕捉されずに走りきること。
それさえクリアすれば勝利の条件はほとんど整う。
「さて」
……どうしたものか。
夕樹は考えるべきだった。
《結界砕き》の霊子干渉はあまりにも目立ちすぎるということを。
しかし、彼らは決して戦闘のプロではない。
ただ、相応のポテンシャルを持っているから戦えているように見えるだけ。
目の前には、八人の術士。
「チッ……」
舌打ち。
両手の掌同士を平行に構える。
掌には幾何学的な紋章。
いわゆる、魔法円。
「術式が使えないというわけでも、ない!」
霊子印章から解き放たれた術式が光を放ち、周囲の風景を凍て付かせていった。
*
「一分もてば良い方か……」
アスファルト上を走りながら、夕樹は溜息を吐く。
夕樹の義体がいかに高性能の戦闘用義体であるとはいえ、戦闘慣れした術士八人を相手にして勝つことが出来るものではない。
目指す場所は
赤外線探知が追っ手の接近を報せる。
舌打ちした夕樹の両足を燐光が包む。
足から腰、胴、腕、と、燐光は全身を覆っていく。
加速。
夕樹を覆ったのは不確定な状態の霊子。
不確定な状態の霊子を纏うことで、外界の干渉を減少させることが出来る。
それはつまり、空気抵抗などといった要因を無視した尋常らしからぬ走りを可能とする、ということだ。
その疾さ、時速にして一〇〇キロ。
生物最速とされるチーターと同等の速度である。
圧倒的な速度をもって、さほど時間を掛けずに夕樹は目的地である川原へと到達する。
「さて」
「チェックメイトだ、代行者」
夕樹の周囲には、先程の術士、八人。
凄まじい速度であったにもかかわらず、彼らはソレについてきたということになる。
術士たちは川原の様子を見回し、夕樹へと向き直る。
「残念だが、ここには何も無い。遮蔽物も何も」
小馬鹿にするような口調で術士は述べる。
光の球体が無数に現れ、その全ての矛先が夕樹へと向けられる。
多対一で戦う場合の定石は、ともかくどうにかして一対一の状況を組み上げることである。
今のような、何の障害物も無い場所で囲まれる、というのは最悪に近い。
「何故お前らは俺を狙った? 清水天象と係わり合いがあるのか?」
溜息を一つ吐き、夕樹は呟くように言う。
術士は答えず、刃を向け、夕樹に問い掛ける。
「ミフチはどこだ?」
術士の、疑問系での返答に夕樹は思わず顔が緩みそうになるのを堪える。
「……そんなことを聞いてどうする?」
勿論、夕樹はまだ深渕の所在など知らない。
しかし、それを理解していないようすの夕樹の正面に立つ術士は、問いに笑みを浮かべる。
その表情は勝利を確信して疑っていない。
「ミフチを、その欠片を得るために決まっているだろうが」
「それは目的のための途中段階だろう? それを経て、何を望む?」
夕樹の言葉に術士は硬直し、すぐに元の表情を取り戻す。
しかし、夕樹はその表情の変化を見逃さない。
小さく溜息を吐き、言葉を続ける。
「組織の細胞は深くを知らず、か。まぁいい。その程度の情報とは期待はずれだったが……」
絶体絶命の危機においても、夕樹の言葉は全く動じてはいない。
両目を閉じ、静かに言葉を紡ぎ上げる。
ただ一言、
『押せ』
と。
*
押せ、と。
無音の声が響く。
術士は不審こそ感じはしても、そこから退避するというつもりは無いらしい。
水美は、小学生が自信作を見せるような、満面の笑みを浮かべる。
その左手にあるのは携帯電話ほどの大きさの直方体の箱。
何の飾りも無い、金属質な箱の中心には赤い押しボタン。
「ポチッと」
コミカルな
刹那、川原の方向からキノコ雲が上がった。
*
アナログ時計が日付の変更を示す。
星が流れる。
大都市圏からある程度離れているため、少し歩けば街灯も無い暗闇とてすぐ近くにある。
「さて」
夕樹は後方に倒れこむ。
それを支えるのは、誰一人として管理していないために伸び放題となっている野草達。
「これからどうするつもり?」
夕樹に倣って倒れこんだ水美が、緊張感の無い口調で問う。
周囲に人はいない。
遠くへ目を向ければ、都市の夜景とは比べるまでも無い、小さな街の夜の灯りが見える。
「当面は待ちに入る。情報も無いしな。さっきの集団に関してはどうでもいい、こちらから何かするつもりは無い」
だが、
「もし向こうがアクションを掛けてきたのならば、容赦はしない」
「そっか」
あの時、八人の術士の包囲網から夕樹が逃げ切ることは不可能だった。
だからこそ、夕樹は逃げ切ることを諦めた。
しかし、正面切って勝つことは、逃げ切ることよりも難しい。
夕樹が選んだ道は、相手を道連れにすることだった。
恐らく、肉体が内部から爆散するなどという凄絶な経験をしたことがある生物など、夕樹くらいだろう。
「……しかしもう、
肉体が死に至ると、通常は精神が陰の側面を遊離し、いずれは次の肉体に転生する。
それが俗に言う輪廻転生。
だが、夕樹の場合は話が違う。
凄まじい衝撃で精神は元の肉体に半強制的に帰還させられ、度数の高いアルコールを大量に飲んだ次の日のような気持ちの悪さに数日間動けなくなるだけだ。
道連れ、という選択肢を容易に選ぶことが出来るのは、そんな夕樹の性質のためである。
電子音。
水美の持つ、夕樹の携帯電話がメール着信を知らせていた。
夕樹は携帯を受け取り、メールを開く。
そして、一瞬の間を置いて、不敵に笑みを浮かべる。
「代行業は一時中断だ」
え? という水美の驚きの声。
「神領に行くぞ」
僅かな間を置き、水美はその言葉を理解する。
「うんっ。新しい
期待に満ちたその声に、夕樹の疲れた溜息が続いた。
〜あとがき〜
文字数は一一六三一文字。
原稿用紙四十二枚相当。
電撃文庫のページだと、三十一ページ分。
……やっぱり改行多いなぁ。
……ものっそい微妙。
キリも良くない。
ストーリーが成り立っているのかすら曖昧。
改行は異様に多く。
一文ごとに行を変える。
更に、振り仮名(ルビ)地獄。
自分で、書いている状態ではそれほどではなくとも、HTMLに直すのに一苦労……
凄まじいルビ数(七十個以上)
……どうよこの状況。
感想・指摘・エトセトラを強く希望。
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