柔らかな風が木々を揺らす。
 葉擦れの音が無音の世界に温かさを生み出す。
 小川を流れるのは冬の内に降り積もった雪が溶け出した雪解けの清流。
 一切の澱みもなく、様々な生命が息吹いているのが一目見ただけでわかる。
 世界を俯瞰すれば、気付くのはその広さと狭さ。
 果てがわからぬほどに広大とも思えれば、まるで箱庭の如し矮小な存在とも思える。
 万象は全て予定調和によって定められ、その運命から逃れることは出来ない。
 もし逃れたとしても、それは逃れることすら予定調和の一つに過ぎない。
 カミという存在は世界という広大で矮小な箱庭を管理し、生命の、文明の、誕生から死を眺めているだけ。
 それは決して崇高な存在などではないのだろう。
 くだらない、とりとめのない思考に苦笑しながら天を仰ぐ。
 雲一つ無い晴れ渡った蒼空。
 そのウエに、カミはいるのだろうか。
 しかし、全てがどうでもよくなるほどに、今日も空は美しく輝いていた。


〜蒼空の記憶〜
〜第一話〜


 ヘルベ島。
 砂礫の島と呼ばれるこの地は、その呼称通り他の島と比べて降水量が少なく、海から数キロも離れればもう完全に砂漠地帯に入ってしまう。
 また、乾燥したその気候から、古代の遺跡が風化することなく多く残り、遺構の島とも呼ばれている。
 内地に入れば遺構の砂漠、ならば都市が海岸沿いに出来るのは必然だ。
 事実、ヘルベ島東海岸に連なるこの都市、テルドアは西海岸のヘルベと並ぶ規模を誇っている。
 近年急速に発達した交通によって、様々な物資の流通が増え、街は活気に溢れている。
「あぢぃ……」
 雑踏の中、青年――トウヤ=ハヤミは溜息を吐く。
 男とは思えない黒の長髪、本に向けられる双眸は髪と同じく漆黒。
 整った顔立ちは肌の色の違いとも相まって、トウヤの存在を際立たせる。
 肌の色はこの周辺の島の人々と比べると随分と薄い、いわゆる黄色人種と呼ばれる人種である。
 島特有の、乾燥した熱気にトウヤはうな垂れる。
 突然の衝撃。
「ん?」
 目の前にはこの島の者だろう、小麦色に焼けた肌の男が、ひどく焦った様子で倒れていた。
「大丈夫か……」
 倒れた男に手を貸してやると、男は立ち上がるや否や、トウヤの質問も無視して雑踏の中に消えていく。
「ちょ、ちょ!」
 再度、衝撃。
 再び見てみると、今度の激突者は眼鏡をかけた栗色の髪の女性。
 その顔立ちは端整ながらも幼く、まだまだ少女と言うべき歳だろう。
 何があったのかと問う前に、少女は切らした息を整え、口を開く。
「今の、置き引き!」
「あぁ?」
 少女の指差す方向は、先程男が走り去っていった方向。
 一瞬の間を置いて、トウヤはようやく少女の言葉の意味を理解する。
「仕事道具が……あれがないと……」
「わかった、取返してきてやる」
 軽くそう宣言すると、トウヤは身長の三倍ほどの高さまで身軽に飛び上がる。
 そのまま石造りの家の外壁を蹴り、屋根の上に登る。
 周囲を軽く見回し、先程の男を探す。
 顔を見たのは一瞬だったのではっきりと覚えているわけではないが、焦って逃げている地元島民を探せばいいのだからそれほど難しくは無い。
 男はすぐに見付かった。
 上から見ると、男は大きなバッグと細い包みを持って逃げている。
「あの包み、どっかで見たことが……って、アレ?」
 自らの腰元を探ってみると、いつも身に付けているはずのものが無い。
 逃げる男が持っているのは見慣れた包み。
 それだけで、何が起きたのか把握するには充分すぎるだけの材料があった。
 石の屋根を蹴り、大きく跳躍する。
 男はまだ、トウヤの追跡に気付いていない。
 雑踏から抜け出し、小道に入る。
「墓穴掘ったぞあのクソドロ……」
 屋根伝いに男に追いつき、男の目の前に跳び下りる。
 並みの人間には出来ない芸当だろうが、トウヤは平穏に暮らしてきた並の人間ではない。
 男は怯えきった表情でトウヤを見上げる。
 男の背が低く、トウヤの背は高いので、高低差が無くなっても見上げるような形になるのだ。
「ひっ……」
「人の商売道具をかっさらいやがって、テメェは、飛ばす!」
 男は盗んだ荷物を捨て、背を向けて逃げ出そうとするが、トウヤはそれを許さない。
 走る男との距離を一歩で詰め、右肘を男の胸板に打ちつける。
 鈍い打撃音と、それに続く硬質な激突音。
 石壁にしこたま側頭部をぶつけた男は、そのまま路地に倒れこむ。
不定士(ふじょうし)からスリを働くなんて、随分とまた不運な野郎だ」
 倒れた男を見下したまま、トウヤは自分の荷物を取り返す。
「……はぁ、はぁ、はぁ」
 振り返ると、そこに居たのは先程の少女。
 急いで追いかけてきたらしく、その息はまた上がっている。
 トウヤは男の持ち物の中から少女のものらしきものを見付け、少女に渡そうと持ち上げる。
「ん?」
 少女のものにしては意外な重さにトウヤは驚きの声を上げる。
 見た目からして、そう重くないものだろうと思っていたのだが、腕にはずっしりとした重量感。
 もしかして彼女のものではないのかと思い、差し出した腕を下げようとすると、息が整え終わったのか、少女がそれを受け取る。
「ありがとうございました。本当、なんてお礼を言って良いのか……」
「お前、何者だ? その荷物、ヤケに重いんだが」
 もしかして間違えたのか、とトウヤは身構える。
 本当は男はスリではなく、少女が嘘を吐いているのかも知れない。
 彼のような仕事に携わっていると、疑り深くなるのは仕方が無いことだ。
 しかし、その想像が見当外れなことにはすぐに自分で気付く。男は自分の仕事道具も持ち去っていたのだから冤罪も何も無いのだ。
「えっと、私は……ってこんな場所で話すのもなんですから、お礼も兼ねてどこか入りませんか?」
 その言葉で周囲を見回すと、そこは薄暗い細路地。
 暑いどころか熱いくらいの直射日光が当たる表通りよりは幾分マシではあるだろうが、それでも少なくとも自己紹介に適した場所ではない。
 トウヤも昼食をとろうとしていたところだったので、丁度良い。
「あぁ、どこか良い店とかあるのか?」
「え〜……はい。ケバブの美味しい店があるらしいです。そこで構いませんか?」
「この島は来たばっかだから何もわからん。別にどこでも」
 そうですか、と少女は頷き、トウヤを先導するように表通りに出て行く。
 盗人を一瞥し、どうすべきかと一瞬悩んだトウヤも、小さく息を吐いて少女に続く。
 降り注ぐ陽光は人々を灼き殺すつもりでもあるのではないかと思うほどに厳しい。
 急な明るさの変化に目を細めて対応する。
 すぐに視細胞のはたらきが桿体細胞をメインにしたものからから錐体細胞をメインに切り替わり、明順応を起こす。
 人込みの中、姿を見失わないように少女を確認する。
 だが、見失うのも杞憂だと息を吐く。
 少女の容姿はここでは目立つ。
 トウヤの容姿も相当に人の目を引くが、雪のように色素の薄い白色人種系の肌に栗色の髪はここではあまりに浮いている。
 まぁ、そもそもこの島では雪など降らないのだが。
 トウヤがそんなことを考えている内に少女は一軒の店の前で手招きをしていた。
「ここか?」
「多分、そうです。ともかく入りましょう」
 押し込まれるようにして店に入るトウヤ。
 店内を見まわしてみると、一瞬美術館と間違えたのかと思うほどに様々な物品が展示してあった。
 それらはこの辺りの遺跡から発掘されたものだろう。
「遺構の島、か」
 呟き、少女と共に適当な席につく。
 微かな沈黙をおいて、先に口を開いたのは少女。
「先程はありがとうございました。本当に、これがなかったら大変で大変で……」
「まぁ、俺の荷物も盗られていたからな、被害者同士、そんなに気にすることじゃない。それよりも、その荷物は?」
「えっと、自己紹介がまだでしたね。私はラピスラズリ、レビア出身の鍛冶師兼霊石技術者兼歴史学者兼喪失技術研究者見習いです」
 聞き取れないほどの速さで並べられた言葉にトウヤは確認するように問い返す。
「あー、技術者(エンジニア)ってことで良いのか?」
「そうですね。あくまで見習いですけど、今はその修行の旅ってところです。盗り返して頂いた荷物は整備箱です。少し裏技を使っているので重いんですが」
「裏技?」
 思わぬ言葉にトウヤは疑問符を浮かべて返す。
喪失技術(ロストテクノロジー)です」
「古代超文明の失われた技術、だったか?」
 喪失技術。
 この島が遺構の島として有名なのは、それが文化的に価値があるから、というだけではない。
 むしろ最近は実利を伴った古代の超技術、喪失技術によって造られた様々な物品が発掘されるため、という理由の方が強くなっているだろう。
「この工具箱にはあらゆる存在を構成している粒子と粒子の間の存在する隙間を極限まで圧縮させて密度を上昇させることで体積を減少させた色々なものを入れてあるから重いんです。変わるのは体積だけであって、質量そのものは変化しませんからね」
 嬉しそうに解説する少女――ラピスラズリだが、そんなことを説明されたところで門外漢のトウヤには理解するだけの知識は無い。
 どう切り返すべきかと思い、重要なことを忘れていたことに気付く。
「俺も自己紹介をしてなかったな、俺はハヤミトウヤ。いや、スタンダードな言い方だとトウヤ=ハヤミか。一応、不定士(ふじょうし)をやっている」
「やっぱり、不定士……」
 安心したように呟くラピスラズリ。
「ん、もしかして何か依頼したいことでも?」
 不定士。定まらざる者という呼び方そのままに、特定の何かを専門とするわけではなく、依頼を受けたらそれを遂行する、つまりは何でも屋である。
「はい、イーシュナ遺跡まで行くつもりなんですが、一人では心細くて。護衛をお願いしたいんです」
「……イーシュナ、ってと」
 トウヤは手持ちの鞄の中からヘルベの地図を取り出し、指で追う。
 どこなのかわからずにさ迷うトウヤの指。そんな様子を見てラピスラズリは地図の一点を指す。
 そこにあるのは赤茶けた一点と、イーシュナという文字。
 砂漠のド真中にあるということだろう。
「確かに……こりゃ女の、というか素人の一人旅には厳しいだろうな」
 街から街へと伝って行けるのであればそれほど問題ではないのだが、周囲に集落一つ無いところを一人で歩くのはあまりに無防備だ。
 トウヤのように、戦うことを職種としている者ならばともかく、素人では霊装を使ったところで乾燥地帯の獣達の貴重な栄養源になるのがオチだろう。
 地図上の縮尺から考えて、トウヤ一人で可能な限り速く到着しようとして一日、ラピスラズリの護衛ということで駱駝辺りに乗るのだとしても三日も掛からない距離だ。
 特段急用があるわけでも、働かずとも大丈夫なほど金を持っているわけでもないトウヤには断る理由は無い。
 あとは金銭的な問題くらいだ。
「五万リラ……でどうでしょうか?」
 三日で五万ならば破格の安さでも異常な高さでもない、一般的な不定士の雇用価格として妥当なところだ。
 自分の腕に自信を持ち、高額の賃金を要求する不定士も少なくは無いが、トウヤはあまりそういったところに拘らない。
 実はただ単純に不定士業の相場を知らないだけなのだが、本人が気にしていない以上はそれで構わないのだろう。
「あぁ、いいよ。イーシュナ遺跡まで、内部、帰路での護衛、併せて五万リラで速水冬耶が確かに請け負った」
 トウヤはそう宣言し、依頼料である五枚の一万リラ札を受け取った。


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