箱根の山中。
最寄の温泉街にはゴールデンウィークを間近にひかえ、予約に追われる旅館の人々が、忙しく受話器を取っている。
だが、そこには誰もいない。
最高級とまではいかないまでも、十二分に雰囲気を備えた老舗。
かつて湯治場として名を馳せ、バブルの崩壊と共に廃業した旅館には今、誰一人いない……
〜ふぁんふぁんファンタジー〜
〜第九章〜
神原学園東棟。
東棟は西南北と中央の四棟とは校庭を挟んだ位置に離れている。
部活動の部室でそのほとんどが占められる、通称部活棟。
当然のことながら、生物部の部室もそこにある。
「顕微鏡、風也」
「ウスバカ・ゲロウ。波海」
拳一閃。
生々しい打撃音が響き、風也が笑顔のままメートル単位で跳ねる。
打撃の主は変わらぬ美貌を振りまきながら、六つ足の昆虫の名を告げる。
「ウスアヤカミキリ。澪」
「え? リ? ……えっと、リノリウム。その、床材ね」
妙な言葉が連続されるしりとり。
続く順は風也、波海、澪。
同じ部の部員として取り敢えず仲良くしよう、と始まったしりとり。
まぁ、実際のところは部員が揃うまでの娯楽ではあるが、三人は三人、十分に楽しんでいた。
「ムネアカヨコモンヒメハナカミキリ。波海」
「リ攻め? でも残念、私には効かないから。リュウキュウタケウチヒゲナガカミキリ」
「……って何ソレ?」
澪の苦笑が混じった言葉に、二人は「生物部だからね」と回答。
その言葉に澪は零れる笑みを隠さない。
「まぁ、別にいいけど」
澪は付け足し、続く言葉を考える。
数拍考えた辺りで部室の扉が滑らかに開く。
「アレ? もう三人も居るの?」
三人の耳に聞き覚えのあるハイテンションな声が聞こえる。
同時に見覚えのあるハイテンションな笑顔が目に入る。
「瑞姫。アンタが遅刻」
波海の指摘に、瑞姫は歳不相応なまでの無邪気な笑顔で返す。
顧問である樺宮瑞姫も、実質は部員と似たような扱いを受けている。
まぁ、そもそも年齢もそう変わらない。
本人は「年齢不詳」と誤魔化しているが、二十代前半、もしかすれば十代かもしれないほどである。
「ごめんごめん、山田っていう苗字と相対性理論の十九次元的関連思考で忙しくって」
「難しいこと言ってるようで全く意味の無い意味のわからないこと言ってんじゃないの」
瑞姫は大きく深呼吸、何事においてもオーバーな動きである。
ひとしきり空気を吸い込むと、瑞姫は相変わらずの笑顔で椅子に座り、一瞬考えてから問いかける。
「でもどうするの、風也。澪ちゃんには悪いけど、この時期から始めることなんて考えてないし」
瑞姫の問いかけに風也は頷いて答える。
「うん、だね。まぁ、親睦旅行までは生物部の雰囲気に馴染んでもらおうよ。それで良い?」
「はい……うん」
気付いたように敬語を直す澪に、二人は満足そうに笑みを漏らす。
澪は、生物部という部がどういった活動を行うのかは全く知らない。
別に生物部であるから入ったわけではなく、動機は波海に誘われ、そしてただ楽しそうだったから、という単純なものである。
「じゃあ、ゆっくりじっくりさっぱりと、長めの部活見学してね」
瑞姫の楽しそうな高い声に、澪は深く頷いた。
リノリウム貼りの床を見つめながら、少年は少女に、少女は少年に寄り添っていた。
別にどこが悪くなったわけではない、その兆しがあるわけでもない。
ただ、二人は長椅子に腰を下ろし、床を見つめていた。
短い時を、長すぎる時を紛らわすかのように……
「で、アンタ達は一体何してたの? もう終わりだけど?」
「馬鹿の補習に付き合ってた」
呆れたような波海の言葉に、葉河が目尻を擦りながら答える。
葉河の応えに、波海は溜息を一つ吐いて窓の外を見つめる。
既に日は傾き、空は浅緋。
試験前ということもあり、部活も片付けに入っている。
「まぁ、片付けくらいやっていって」
「ウワッ……最悪な時間に来たな」
瀞が嫌そうに、その一応秀麗な顔を歪める。
「瀞君遅かったね、今日はしりとりを頑張ってたのに」
「そんなこと言うと、それしかやってなかったみたいに聞こえるから。あ、そっちの包丁洗っといて」
波海は器用に左手一本で皿を洗いつつ、右手で包丁を指差す。
葉河は仕方なさそうにスポンジと包丁を取り、洗い始める。
「アレ? 俺は?」
「鍋」
簡潔な回答に疲れつつ、瀞は水道の蛇口を捻る。
瀞はコーンスープでも入っていた風の鍋を馴れた手つきで洗っていく。
生物部では真面目な活動もあるが、他の部活と比べて“お遊び”風の時間が多い。
何故だか作る料理類、二月十四日のチョコパーティ、早春の親睦旅行にしてもその延長線にあると言える。
「テストが終わったらもっと自由に出来るんだけどね、今日は四人も休みだったしね」
「そう……楽しみ」
「楽しみにしてもらえて嬉しいよ、具体的には二十二次元風に」
具体的なのかどうかすら全くわからない風也の言葉。
意味も無く笑みを浮かべる澪に、風也も続いて笑みを浮かべる。
手早く洗い物を済ませた三人は、既に帰りの支度を済ませていた。
乗用車でも擦れ違いは出来ないであろう。
そんな道幅の小道を、四人は横並びに歩いていた。
瀞、澪、葉河、波海。
四人一緒に下校するのは既に暗黙の習慣となっている。
「あ、私こっちだから」
波海はそう言うと、方向を変え、手を振りながら歩いていく。
「あぁ、じゃあ」
「じゃな」
「じゃあね」
三人三様の言葉で別れを告げ、三人は真っ直ぐに歩き続ける。
波海の家は瀞達の家から、遠くはないが隣接しているわけではない。
そのため、瀞の家に居候している澪と、隣宅に住む葉河とは違うルートで帰ることになる。
「今日も楽しかった」
「いつも通りなんだが……」
「いいの、今日も楽しかったんだから」
機嫌良さそうに微笑む澪を見、瀞は癖にすらなってきた溜息を吐く。
葉河はそれを見て小さく笑う。
そんな僅かな間に出来た習慣に、澪は今まで無かった不思議な安堵を感じる。
「あれ……」
一転、空気が硬直し、澪の表情が険しいものへと変わる。
その変貌に二人は疑問の表情を浮かべる。
澪はそんな二人を見て確認の問い掛けを一言。
「……感じてる?」
「何を?」
瀞の問いに、葉河が問い掛けで答える。
「追っ手って奴か?」
「……多分。葉河は逃げて、瀞も」
奥歯を噛み締め眼光を鋭くする澪の姿を見、二人は小さな溜息を吐く。
葉河にとっては“覇術”というものを見る初めての機会でもある。
同時に、それは最初で最期となる可能性もあると言う事を澪は知っている。
それ故に澪は言う、逃げろ、と。
「ヤダ」
即答。
「解らないの? うぅん、解るでしょ? 覇術は危険なの! だから……」
その声は尻すぼみに小さくなり、雪が溶けるように弱々しく消えた。
そんな澪の声に、考える間も無く、真っ先に答えたのは葉河だった。
「解るけど知らん。それに逃げてて楽しいか? 俺は楽しい方を選ぶ」
理屈など完全に無視した葉河の決意の言葉に、澪は喜びと同時、後ろめたさを感じていた。
一瞬の思考を済ませ、言葉をまとめた瀞も言葉を放つ。
「まぁ、居候だけど同居人だから……てあれ、何か違うな」
どこか間違ったその言葉も、澪にはとても心強く、そして嬉しく感じた。
二人が、自分の思っていた以上の馬鹿であることを確認、呆れを含んだ溜息と共に、澪は感謝の意を口にする。
「ありがとう。でも本当に危なかったら逃げてね」
澪はいつにない真剣な眼差しで二人を見る。
「……今更そういうこと言うなよな」
瀞が吐息と共に一言。
葉河はその言葉に、まるで当然のことのように、深々と頷く。
澪はそんな二人の優しさに僅かに目元を湿らせながら、再び感謝の一言を口にした。
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